ホツマが人生学習で得てきたこと

ホツマがいままでの人生で学んできたこととかを、みーんなはきだしまーす。

この世界の問題を解決しなくて良いのか2笑

こんにちは、ホツマです。

前の記事を何気なく読んだらこれも書こうと思ったので、簡単に書いておきます。

ワプニクさんの入門書だったと思うのですが、世界に対して何かしなくてはいけないのでは、という話題について書いているなかで、私に役立ったし腑に落ちたところがありました。

目の前でなにか起きて、私も何かしなくてはと思っても、ほとんどは邪魔にならないように赦しを実践するだけだ、といった記述があります。

私は緩いので、ほんとはどう書いてたのか読み返してないのですが笑

これは、実際に私も奇跡講座を学んだあとに、実践にいかそうとしたときに一番悩んだところです。

目の前で人が困ってるのに、なにもしないで邪魔しないようにしてるだけってできるか?ということです。

たとえば、いきなり人が倒れたり、交通事故があったり、自分が手を出せない場合は分かりやすいけど、仕事で困ってる人がいる時にそれを手助けするのはダメなのかな?とか、間違ったことをしようとしていると思われるときにそれを正さなくて良いのかな?とか、もっと日常的なことにはどう対処すれば良いんだろうと悩みました、

何回か奇跡講座を読み返してるなかで、奇跡は全ての過去、未来の完璧な整合をとって最適な方法をとる、というような記述を見つけて、あーそうーいうことかと腑に落ちてから、とても楽になりました。

私の自我の理解の範囲を越えてるのが真理なんだと笑

さっき書いたみたいな、仕事で困ってる人がいて、私が助けたとしても、それがこの世界的に言っても最適なのかどうかなんて私の自我での判断ではわかるわけないんです。

だって、この世界だけで言っても、ずっと昔の過去のつながり、ずっと先の未来の繋がりが、いまの私たちに影響しているようなのですが、私の自我の認識ではそこまで包括的な判断はできないので、近視眼的な目の前のことだけの判断、行動になっているので、過去や未来の視点では神の元に目覚めるのとは逆の効果を生んでしまうかもしれません。

かたや、私たちが自我ではなくて聖霊に任せれば、過去と未来を完璧に考慮した、目覚めに最適な奇跡を与えてくれるそうなので、これにかなうものはないですよね。

というのも、実は過去と今と未来は自我が一度に考えた並行しているものだそうで、聖霊が最適な奇跡を与えてくれると、過去と未来も一緒に影響を受けるんだそうです笑

まあ、理解を越えてますが笑、スピリチュアル世界では過去と現在と未来はいまに存在してるといってたりしますし、最近の宇宙論もそれに近いことを言い出しているので、科学的にも今後理解が進むかもしれませんね。

私もビジネススキルとか頑張った時期もありますが、どんなにこの世的な知識を広げようとしたって時間・肉体的に限界があり、完璧にすべてを考慮してこの世界における平安を手に入れるのは至難の技だと思います。

世界の頂点にいる大金持ちや権力者が、いくらお金や権力を持っても、いつまでたっても完璧な安心を手に入れることができないのも、全く同じ道理に他ならないと思います。

この世界の仕組みと、心理学などをもとに考えても、この世界のかなに平安を作るのは、自我的には無理というか、それが自我の働きなのかもしれません。

これらのことに思いが至ったときに、ワプニクさんの書いてた、邪魔にならないように赦しを実践するだけだ、という意味がわかったような気がしました。

大切なのは心の中の意思なのであって、目の前で見えている現象ではない、仮に目の前で困ってる人を見て真に慈愛の気持ちから助けたいのであれば助ければよいが、大抵はこの人が遅いと私の仕事が遅くなるとか、あとで面倒なことになるとか、助けないと誰かに冷たいやつと思われるとか、私が逆の立場の時に助けてもらえないとか、相手か自分を責める気持ちから自分を防衛しようという考えて、助けようと思っていることに気づきました。

これがまさに自我の考えです。
これに気づいて聖霊に取り消してもらう気持ちを持った上で、さあ、何をすれば良いかなと聖霊に聞いて、手助けしようという気持ちになったら助ければ良いし、助けなくて大丈夫という気持ちになったらなにもしなくていいし、むしろなにもしなかった方がその人が本領を発揮して成長し、仕事が楽になったりすることもありました笑

それもこれも、その原因となってる、自分の中の罪悪感を聖霊に取り消してもらい、この世界の夢から覚めて、神の元に目覚めることだけが目的なんだということなんだなーと、改めて思いました。

だから、ウクライナのことも大変だけど、心のなかでは赦しを実践しつつ、この世界的には何かすべきかは聖霊に相談して、相手にも自分にも攻撃する心を持たずに、与えられたミッションを誠心誠意やってくだけだな。

前回の記事に感謝笑

全ての心に神の愛と光と平安を見ます。

この世界の問題を解決しなくていいのか

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こんにちは、ホツマです。

昨日の記事を書いたあと、ふとこの話題が思い付いたので書いておきます。

私もそうですが、普通この世界にいる人は、常にいろんな問題に直面しており、問題を解決していくことが人生だと言えるくらい重要だと感じていると思います。

奇跡講座ではどういってるのかというと、もちろん、この世界は存在しないのだから問題も存在しないということになるんですが笑、そんなに冷たくはないんですよ笑

私たちがこの世界を認識してるうちは、罪悪感を持っているので問題と思われる人や出来事に出会わざるを得ないし、それによって自分の罪悪感を認識して聖霊に取り消してもらうようお願いできるので、この世界をあとにするときまでに穏やかになっていくとはいえ、無視してはいけないでしょうから、ワプニクさんの書いた入門本やゲイリーさんの本には以下のよう感じで噛み砕いて書いてます。

究極には本当に聖霊に任せれば私たちは何もしなくても問題は解決していきますが、例えば目の前で倒れた人がいたら聖霊に話しかけているよりも先にその人を介護した方がいい。
そのときは後で聖霊に話しかければよい。
また、具体的な解決方法をどうしても必要だと思うなら、聖霊に助けを求めて、ひらめいたことや本で読んだことでこれだと思うものがあったら、聖霊と相談して良いと感じたものを実行するというのもいい。
ただし、大事なことは、必ず赦しを実践し、この世界は存在していないという認識のもとで行うこと、だそうです。

大変だ、どうしようもない、きっと無理だというような信念で取り組むと、そう思った通りにことが運びます笑
ある意味で引き寄せの法則があるように思えますが、繰り返しますが大事なことはこの世界は私たちの心の中で夢見てるだけの世界であり、何かを成し遂げたと体験しても、実際には何も起きてないのと同じというのが実相だということです。

私たちはこの夢の世界では決して満足できないので、この世界の問題解決をしてお茶を濁すのではなく、根本の原因であるこの世界を夢見始めるきっかけになった私たちの中の罪悪感を取り消すことこそが一番大事なことです。

だから、問題を解決するために、政治を変えたいから政治家になるとか、会社を作って社会に貢献したいとか、慈善事業をしたいとか、いろんな考えがあると思いますが、聖霊に相談した上でなら何をやるのも自由で、それが純粋な愛や慈しみの心から出たものなら良いですが、それが自己顕示欲とか、人の上に立ちたいからとか、支配したいからとか、人よりも贅沢したいからとか、自我から出たものであるなら、さらに問題を多くするのではと思うので、あまりおすすめはできないと思います笑

自我にしたがって問題を多くするのさえ自由なんですが笑、本当に私たちは問題を多くしたいのでしょうか。
何度も輪廻転生して同じようなことを繰り返し、神の元に目覚めるのを引き伸ばしているだけなのではないでしょうか。

神は永遠に待ってくれるし、全ての心がそれぞれの良いタイミングで目覚められるよう完璧なサポートをしてくれますが、私たちの方はもうこれ以上問題を増やすのはたくさんだと思っているのではないでしょうか。
少なくとも、私はもうたくさんだと思ってます笑

とはいっても、私も悟ったわけではないし、実相世界しか見えないのでもないから、証拠を見せろと言われても何も出せないですし責任もとれないです笑

私の実感として、奇跡講座に取り組むと心に平安が訪れるというのは言えますが、平安が訪れなかったら責任をとれと言われてもとれません笑

だから、奇跡講座は個人的に取り組むものという点が良いところだと思います。

話が少しそれましたが、何にもしなくてもいいけど、何かした方がいいと思ったら聖霊と相談してやるかどうか決める、目の前で倒れた人がいたら助けてあげる、です笑

感謝

意識とは何か

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こんにちは、ホツマです。

疑問と言えば、意識とは何か、死んだらどうなるかというのも疑問でした。
自分の考えの整理のために書き出しておきます。

日本の神道では、死んだらみんな神様の元に帰るという考え。

仏教では、死んだらみんな仏になるか地獄にいく?

老子道徳経では、無に帰るのかな。

あと、輪廻転生するという考えたかもありますよね。

最近の科学では、いまだに生命の元や意識というのを解明来てはいません。
脳の反応を見ることはできますが、たとえば、コップをつかむという行動を、脳波と腕の筋肉の動きとを観察したところ、腕の筋肉の方が脳波よりも早く反応するそうなので、脳が意識の元だとは言えないそうです。

また、輪廻転生も欧米では科学的に研究が進んでいて、過去生の記憶がある人の例えば前世の親とか自分自身の記憶をもとに調査すると、本当に見つかるものもあるそうで、過去生はあるという認識が広がっているそうです。

じゃあ、意識は日本で言うと魂みたいなもので、ずっと続くんだろうか。
永遠になんの目的もなく、ただ輪廻転生し続けるんだろうか。

この世界を認識しているこの意識は実感があるけど、意識が無かったらこの世界もないんだろうか。
輪廻転生がありそうだから、意識が無くなるというのはなさそうだけど、いつ生まれたんだろうか、いつか無くなるんだろうか。
何もないということがありうるんだろうか笑

これらのことを趣味の範囲で調べてましたが、考えても考えても答えはでないですよね笑
何しろ確証のないことばかりが検討の基礎データになってるんだから笑

とはいえ、人生では自分なりの答えを出していくことが、生き甲斐につながるような気がして求め続けてたら、奇跡講座にたどり着いたですね笑

奇跡講座は神が存在する前提で書かれてるので、神を拒否してる人は一見すると読みたくもないかもですね笑

ただ、私はこうも思ってます。
奇跡講座で神と呼んでいるものは、私たちの意識の根本とか本質のことと言えるのではないか。

例えば、自分の体に例えると、私の意識が神だとして、手足や内蔵や私の意識と潜在意識に従うものがあり、それぞれが個別に判断して動くときもあると思いますが、基本的には私の意識に沿った動きをしてくれます。
言葉とかでは手とか足とコミュニケーションしてませんが一心同体、というのとにてるのかな。
手とか足とかが自分達の自由を申し立てて私の意思に反して勝手に動いたら困りますよね笑
もしそうなったら、手も足もなんとか私の意思の通りに動いてくれるよう導くのではないかと思いますが、それと似てるかなと笑

そう考えると、無心論者の人も心理学の1種だくらいな認識で読めませんかね笑

ちなみに、奇跡講座では病気について、私たちの意識が病気という状態を求めてそれに体が忠実に答えているだけなので、本当に治癒できるのは自分自身しかいない、と定義しています。
自分の力って大きいな笑

さて、私たちの意識とは何か、については、とりあえす奇跡講座でいってる、神が私たちの根本で、私たちはその一部であり、一心同体の神の子としての意識だということで、進めてみようと思ったのですが、神というのは意識があるということが前提で、意識がないってことはあり得ないということなんだなとも思いました。

ただし、奇跡講座でも注意として書いてますが、意識かがあるとかないとか、神とはなにかとかを哲学的に突き詰めていっても、実は私たちがこの世界にフォーカスしてる時点で、理解力や認識を自分で限定しているので、真理について本当に理解することはできないようですので、逆に哲学や神学の議論でこの世界に足止めしようとする自我のワナとして使われかねないので、いろんな議論にはとらわれない方がいいようです笑

ということで、私は奇跡講座で整理した考え方で、意識とは何かという疑問に終止符を打つことにしました。

これ以上突き詰めるより、私の本質の意識に戻ることの方が重要に思うので笑

誠心誠意、気楽に明るく楽しく世界を赦して人生を送ろうと思います笑

神が私たちをいまでも愛してくれてることに感謝。

奇跡講座 この世界は混乱を土台としてきた

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こんにちは、ホツマです。

今日奇跡講座のテキストを読んでいて、以前読んだときにこれが私のこの世界に対する疑問への答えだなーと思った文章にまた出会ったので、共有しておきます。

29章2-7からの抜粋
ここでは次から次へと混乱が続いていく。というのも、この世界は混乱を土台としてきたからであり、それより他に、世界が立脚するものはないからである。4世界は常に変化しているように見えるが、その土台が変わることはない。5だが、それこそが混乱が意味する状態でなくて何だろう。6混乱している者たちにとって安定は無意味であり、変移や変化が、彼らが人生の拠り所とする法則となる。

以上抜粋ですが、この世界は、宇宙の仕組みは全部はわかってませんが、常に星々がお互いに影響しあって回転してるし、生まれては死んでるし、地球にフォーカスすると、地上は天気も地形も自転も地軸も変化してきたし、地上の生物もお互いに影響しあって生まれては死んでるし、人間にフォーカスしてもお互いに影響しあって動き回り、生まれては死んでるし、人間の皮膚や体内では微生物が住んでいてお互いに影響しあって動き回り、生まれては死んでるし、人の心もコロコロと変化するし、この世界への理解が深まると、変転流転し混乱に満ちているのに、花びらの形とか貝殻の模様とか原子分子の繋がりとかに完全な規則性があり、完璧な秩序の上に成り立っていると感じられるのですが、私はずっとこの混乱と秩序がどちらが真理なんだろうと疑問に思ってました。

秩序が真理だと思いたいのですが、秩序を保とうと仕事や人間関係をどんなに気配りしても、どこかで抜け漏れや、外部要因などのアンコントローラブルな出来事が起きて、秩序を保てないときが多々ありますよね笑、それでも結果オーライにはなることが多いんだけども、いつかは老いて死んでいくのは避けられませんよね、自分自身に混乱が内在している笑

誰かが、生きることは死ぬことと見つけたり、と書いてたものがありますが、武士道でしたか?、まさに、生きることは死ぬことと同じなんじゃないか笑

いやいや、生きてるのは死んでないんだから違うよと言う人もいると思いますが、その時の瞬間だけ切り取ればそういえるけど、誰もが時間を止めることはできないのだから、生きたら必ず死ぬと言うことなので、生きることは死ぬことと同じなんだと私は思います。
意識というものが、生きてるときの状態と死んでるときの状態の変化だといってる人もいますよね笑

老子道徳経には、この世界は混沌から生まれ、陰と陽のバランスで成り立っているというようなことを書いてると私は理解したのですが、まさに、この世界を見渡すと、混沌が基本にあって、対立するものの攻め合いで動いていると思います。

じゃあ、混沌や混乱が真理なのか、そんなら永遠にみんなが幸せや平和になる世界なんて作れないじゃないか、なのに何でほぼ全ての人は幸せや平和を求めるんだろうかと、疑問でした。
いやいや、陰暴論で言う7人とかその手先は平和や幸せは求めてないだろという人もいるかもですが、おそらくそういう人がいるとしても、自分や家族や大事な人との幸せや平安を求めて色々やってるんだろうから、思いは同じなんじゃなかろうか笑
まあ、奇跡講座的にはその人たちも私自身であり神の子として1つであり愛と光と平安そのもので親切で善きものなんですけどね笑

そして今回の文章を踏まえた奇跡講座の理論です笑
この世界は夢であり、神や神の子からの分離を願望とした結果の混乱を土台にした世界だが、私たちの本質である神の子は、神と同質の愛と光と平安と一体性そのものであるから、この世界のあらゆるものは私たちを満足させることはできない、なぜなら私たちが神と反対の性質を願望したからだ。

これで、私の疑問は晴れました笑
この世界は、私たちが思ってる通りになっていたんだ笑
私たちはお互いに罪があると攻撃し合い、心の中の罪悪感を増大させてきて、完全に分離していると信じきって、もともと1つだったことも、分離を自分が願望したことも忘れてしまうまで行き着いたんだけど、この世界を取り消すのも私たちの意思が必要笑
ただ、これを本当に確信するにはこれから赦しを続けて奇跡を何度も見て、自分の中の罪悪感を聖霊に取り消してもらい、自分の外側に投影していた罪悪感が無くなるまで続ける必要があるとは思いますが。
このからくりに気づかないと、幸せになるとそれを壊したくなったり、暇になると騒ぎたくなったりなんか食べたくなったり笑、自分の自我に振り回され続けるけれど、いつか疲れて平安を求めるという、混乱の時間を体験するわけです。

そう、まさに体験があるだけで、この世界は私たちが思い描いてるだけで存在していない笑
私たちが毎晩見る夢も、体験はあるけど存在していないですよね。
私たちが毎晩見る夢は、この世界が夢であることをカモフラージュするための仕掛けなんだ笑

この世界が存在しないと言えるのはなぜか。
それは、神は混乱を意思してはいないから。
神の意思以外のものは存在させない、というか存在できないんではないかと思います。

混乱してるものはお互いに攻撃しあっていずれ相互に傷つき消えていくでしょうから、永遠には残れない。
もし、傷つけあって片方だけ残ったとしたら、寂しくなって死んじゃうか、後悔して真理に気づくとかで永遠の神の元に目覚めるのでは笑
これはわたしの妄想ですが笑
つまり、一時期存在できるものは、永遠の時間から見たら既に過ぎ去っていまは存在していないものなので、存在してるとは言えない笑

なんか禅問答みたいですが笑、私はいまはこんな風に理解してます。

だから、この世界を変えることが大事なのではなく、私たちが聖霊に導かれて必ず神の元に目覚めると信じて、赦しを実践して自分の中の罪悪感を取り消してもらうことだけが大事であり、肉体も時間もこの世界も、その為だけに役に立つことができ、いずれこの世界は優しい夢に変わっていって、神の元に優しく目覚めさせてもらえると言うことだそうです笑

毎日大変なことがあったとしても、笑おうと思えば笑えます。
笑えば少しは元気が出ます。
何よりも、この世界は夢なんだから、やれるだけやって、あとは運を天に任せるという気持ちになれるので、奇跡講座の考え方は私は好きです笑
そうすると、八方塞がりだと思ってた状況がなんとかなるときもあるし、やっぱりだめだったけど人生はなんとかなる場合もあります笑

私たちの明るい心で世界を照らしていきましょう笑

愛と光と平安に感謝。

赦しの実践の1年を振り返って

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こんにちは、ホツマです。

今年の締め括りに当たって、この1年の学びを振り返っておこうと思います。

過去の記事を読むと、それをきっかけにいろんな気付きや学びがあり、私にとってもありがたいものだと思いましたので、これからもちょくちょく思い付いたときに記事を投稿して行こうと思います。

また、過去記事で男女の関わりについて書いてましたが、いまの私の思いとは主旨が全然違うものになってしまいましたので、この機会に削除するか書き換えるかしようと思います笑
これに関する学びも、いまはすべてスッキリしてしまい、ありがたいです笑

さて、前の記事にも書きましたが、奇跡講座が終わったからといって劇的に周りの世界がかわる訳ではなく笑、相変わらず仕事やコロナに忙殺され、めまいが起きたり(加齢性らしい笑)体調不慮もあったんですが、できるだけ自分で何とかしようとせず、可能ならその場で、その場でできなければあとから振り返ってその出来事や相手や自分と思ってる体を赦し、真理を見つめて聖霊に取り消してもらえるようにお願いしてきました。

すると、早いものではその場で解決法方が誰かから差し出されたり、遅いものでも数日で解決策らしきものがひらめいたりして、聖霊に一度心で聞いてみてよしと思えたものだけやってみると、そういえば全てがなんとか解決してきたなあ、と、振り返るとわかります笑

心理学的にはもしかすると、不安や苦痛にフォーカスしなくなったからストレスに強くなりポジティブにとらえられるようになったんだと言われるかもですね笑

ただ、大切なことは、この世界を自分の思うように変えるためにやってるんじゃなくて、攻撃をやめて聖霊に心を明け渡して赦すことで、本来の私たちである神の子に目覚めていく過程で、結果的にこの世界が平安に近づいていくと知覚されるようになる、とういうことなのかなと思ってます。

私は過去に、日本の神道をかなり深く学んだときに、全ての人を神であり自分と思い感謝して過ごしてきましたが、あるとき一大反省をしたあと完璧にそれを実践していたところ、1年くらいた時から自分の思い描いたことがどんどん実現していくという経験をしましたが、その時はこの世界は存在する前提で考えてましたので、あっという間に知らないうちに自我と仲良くなってしまい笑、元の木阿弥になったということがありましたので、奇跡講座で言っている、この世界は夢であり、私たちの本質は肉体ではなく霊的な存在であり、ホントに神の元に目覚めたいと思っているんだという考えはとても大切だと思っています。

あと、最近読んだテキストの以下の一文で大事なことだなと思いましたので書いておきます。

それは、ますば、快楽も苦痛もどちらも聖霊にとっては同じものだといった内容ですが、一般的な考え方では快楽は快くて楽しいことなのだから愛とか平安の象徴なのではと思っていたのですが、よく考えると例えばマッサージは痛覚を優しく刺激して心地よく感じるものだけど、足ツボは激痛な人が多いがそれが癖になる人も多いとか笑、SMというのがあるのも同じ原理なのか笑、いたきも(古いか笑)と言うし、お酒も飲んでるときは気持ちいいが記憶がなくなるとあとで怖いし笑、翌日は二日酔いで苦痛だし笑、美味しいご飯も食べ過ぎれば吐きそうになるし、太るし、病気になるし、これらの快楽を得るためにはお金を払わないといけないので稼ぐ苦労は付き物だし笑、この世界の快楽と言うのは、真の意味で純粋に愛や平安だけ感じ続けられるものって全くなくて、必ず苦痛とセットだったり、すごい苦痛より優しい苦痛だから比較的気持ちいいと勘違いしてるものしかないんではないだろうか、と思い納得ました。
どっちも苦痛の違う見方、または知覚の仕方なんだ笑

以上はこの世界に焦点を合わせたときの見方ですが、真理から見るとどちらも幻想なので初めから存在していないということになりますよね。

私たちが分離の夢を見始めたときに作った数多のストーリーは、神の性質であるいちなる法則に逆らったものなので、純粋な愛と平安と光とは真逆のことしか思考できないんだけど、それでは辛すぎるから、自分を慰めるために快楽を思い付いたのかな笑

聖霊は、全ての快楽も苦痛も同じく、愛や助けを求める叫びと理解する、というような表現になっていたのをみて、私も同じ見方をしたいと思いました。

それと、自我はなぜできたのかという質問に対する回答が極めて秀逸です笑
それは、自我は存在していないため、それについて答えることができない、答えたとしたら自我が存在していることになる、とのことですが、全く納得!笑

もうひとつ最近見たテキストの一文をちょっと長いですが引用します。
これを読んだとき、あーこれからまた赦しを実践していこう、と心から思えました。

二十七章Ⅵ
8.この世界の復活はあなたの癒しと幸せを待っている。それは、あなたが世界の癒しを実証できるようにするためである。
2あなたが聖なる瞬間の結果を運んでいきさえすれば、聖なる瞬間がすべての罪に取って代わるだろう。
3そして、誰もこれ以上苦しみを選択しなくなるだろう。
4あなたが果たす機能として、これ以上によいものがあるだろうか。
5癒せるようになるために、癒されなさい。そして、罪の法則が自分に適用されることで苦しむのはやめなさい。
6そうすれば、愛の象徴が罪に取って代わることを選択したあなたに、真理が顕現されるだろう。

真理を顕現してください!笑

ちなみに、聖なる瞬間というのは、心を聖霊に明け渡して赦しを実践した瞬間のことで、ほんのちょっとの心を一瞬だけ聖霊に明け渡しても奇跡が起きるんだから、やらない手はないですよね笑

これを誰にも押し売りしたり、宣伝したり、奇跡講座やってますと宣言したり、聖霊助けて~と声に出して言う必要もなくて、個人的に取り組むものだというのが、奇跡講座の好きなところだし本物だと感じるところです笑

神はいまでも私たちのことを完全に愛してくれている、神と聖霊が計画した目覚めのストーリーは完璧に全ての神の子の心を神の元に目覚めさせると信頼して、これからも赦しを実践していこうと思います。

全ての心に愛と平安と光が届きますように、全ての心に感謝します。

奇跡講座 出会った人が自分自身に変わる夢を見た笑

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こんにちは、ホツマです。

奇跡講座のワークとテキストを1回終えたあと、日々の実践とテキストを読み返すのを続けてますが、面白い体験があったので共有します。

実は、奇跡講座のなかに、赦しを実践すれば寝ているときに夢の中でも実践するようになると書いてた記憶があったので(ページは覚えてません(^_^;))、どうやるんだろうと思いながら日々を過ごしていました。

ある日、寝ているときに夢の中でちょっと怖い夢を見ていて(その時は夢とは思ってませんが)、こんなときこそ赦しの実践だなっと思って一心に、
分離は起こってない、
これは私の罪悪感を投影した結果なんだ、
分離は起こってないんだから罪悪感の原因も存在しない、
聖霊よこの罪悪感を取り消してください、
相手は私とひとつの神の子で私自身なんだ、
聖霊よ私に聖霊のビジョン(見方)で見せてほしい、
聖霊に委ねて赦しを実践しました。

赦しを続けていたら、面白いことに、相手の顔が私の顔に変わったんです!
本当に相手は私自身だったんだなー!と思ったら、とたんに、その前まで感じていた若干の恐れと不安が消えて、とっても平安な気持ちが訪れました笑

普段はあまり夢を覚えてない方なんですが、あまりにはっきりしていて衝撃的な夢だったので、目が覚めた後もしっかり覚えてました笑

これは私にとっては必要で効果的な、聖霊からの象徴的なメッセージだったように思っています。
かなり赦しの実践が深まってきたよということなのかな。

これからますます赦しの実践に取り組んでいこうと思わせてくれる面白い体験でした笑

全ての心に神の愛と光と平安を贈ります。

奇跡講座のワークを終えてから

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こんにちは、ホツマです。

奇跡講座のワークを終えてから、あとは淡々と赦しを実践して、テキストの気になるところを読めばいいようなのですが、嫌だなーと思うことはまだあるし、仕事が忙しいと赦しのことを意識できてないで自我に従ってしまい、いっぱいいっぱいになってしまうときもあります笑

ただ、テキストを初めから読み直してみると、最初に読んだときには理解してなかったのか、全然新しいことが書いてあるような印象を受けるところが多々あり笑、そういうことだったのかーといま腑に落ちたことが何個もあって、特に、常に兄弟達が間違ったことを言ってきてもそれを咎めることではなく、表面ではなくそれを超えた真理をみることが大事で、相手は自分自身であり私と1つの神の子であり光であり愛であり親切で善きものとみる信念を相手に与えることが、自分自身を同じようにみることになり、それは真理であるから必ず自分にも与えられる、といった記述を発見したとき、正にこれだ!と思いました。

これを実践し始めると、この世界は夢であり、大切なのは真理を見つめることだという信念が強くなり、最近嫌だなーと感じることが少なくなっている感じがします。
打たれ強くなったのか?笑

これにしても、私たちはだんだんと神の子から分離したという信念を学ぶことで分離の夢をここまで引き伸ばしてきたんですが、聖霊は同じように私たちに分離は起きてなかったという真理を学ばせて少しずつ信念を強くしていき、いずれ必ず全ての心が神の元に目覚めるよう導く、というか神の国ではすでに達成されている笑、というのが私にもわかってきたように思います。

あとはどんな人生になるのかは神・聖霊の計画に任せて、私は淡々と出会う経験を通して赦しを実践して、感謝して行こうと思います。

全ての心に愛と光があることを見ます。